マーケティングとプロパガンダと教育と

我々が接する情報にはいくつかの階層がある。 我々の現実を構成する素になる情報は、時代と共に質を変化させていっている。 元来、人は解釈というフィルターを通じることで、事実そのものを見ることはできない。 そのため、そもそも、我々が見ている世界(現実)と実際に起こっていること(事実)に乖離はあるものだ。 しかし、情報の質の変化により、現実と事実の乖離がより一層大きくなっているのではないかと思う。

情報の階層

世界のあらゆるものは情報である。 物質的なものから、抽象的なものまで情報である。 “目の前に壁がある"も情報だし、“その壁は硬い"も情報だ。

さて、そうした情報は単体で存在するわけではなく、必ず誰が(情報を得たのか)といったような、メタ情報が含まれる。

そのメタ情報を4つに分類する。

  • 1次情報: 自分が得た情報(“I’ve” got this information.)
  • 2次情報: 仲間が得た情報(“We’ve” got this information.)
  • 3次情報: 仲間内ではないあの人が得た情報(“He’s/She’s/They’ve” got this information.)
  • 4次情報: どこの誰だか知らない人が得た情報(“Somebody’s” got this information.)

主観的と言った場合、1次情報のことを指し、客観と言った場合、2~4次情報を指すといったように当てはめることができる。 ちなみに、仲間内というのは、運命をともにするような存在で、十分信頼にできる相手と考える。

情報のリアリティ

一般的に言えば、情報のリアリティ(現実度、重要度)は

1次情報>2次情報>3次情報>4次情報

という順序で、1次情報が一番高くなりそうだ。 1次情報に近づくほど、欠くことができない階層であるからだ。 しかし、“情報"をいくつかの文脈においてみると、単純ではない。 例えば、

  • 情報の順序: どの情報を最初に知るか
  • 情報の頻度: どの情報に頻繁に触れたか
  • 情報の量: その情報の量がどれくらいあるか
  • 情報の親和性: どの情報が今持っている情報と親和性があるか(矛盾が少ないか)、類似度。

と言ったように、現実は様々な階層の情報をもとに構成されうる。単純に1次情報が優先されるわけではない。

肥大化する4次情報

1~3次情報でこれまでの多くの歴史は成り立っていた。 例えば、自身の経験からだけではなく、仲間内の経験からも情報を得るし、「あの人がなになにをしたようだ」というような仲間内以外からの情報を得ることもあったと思う。 限られた狭い範囲、情報元は確認の取れる範囲(あの人!と指示できる)の階層から情報を得ていた。 そして、4次情報の量は限定的だった。

ただ、TVやネットの出現によって、4次情報が爆発的に増えた。 現実は4次情報を元にしても構成される。 会ったこともない芸能人に思いを馳せたり、事実かもわからない情報を信じ込んだり。 簡単に言えば、ディスプレイに映し出された情報を事実と判断するようになっている。

歪む現実

現実は、真実と事実のみで成り立っていると錯覚するが、それは虚構に対して真実・事実というラベルを付けているに過ぎない。

現実は、真実と事実と虚構の総体である。

真実とは、裁判で証言をする際の宣誓文でいうような情報だ。自分が見た、聞いた、経験した情報で、起こったことだけでなく、起こるまでの経緯等も含む。

“I will tell the truth, the whole truth, and nothing but the truth.”

事実とは、真実から文脈を差し引いた情報で、起こったことは確かにわかるが、文脈や経緯は少なからず欠けている。

虚構とは、文字通りで、ニセの情報であり、事実と文脈が欠けている(ニセの出来事と文脈はあるだろうが)。

出来事文脈
真実
事実-
虚構--

1次情報は真実、2次情報は事実、3次情報あたりから虚構が紛れ込み、4次情報では、事実と虚構が乱立しているように思う。 なぜなら、4次情報まで来ると、大いに自分では確かめようのない情報ばかりだからだ。 表にしてみると、以下のような感じ?

真実事実虚構
1次情報-
2次情報--
3次情報-70%30%
4次情報-??

情報が虚構だとしても、1次情報<2次情報<3次情報<4次情報の順で虚構であると気がつくことは困難になる。 4次情報は、確かめることが一番困難ではないか。 気が付かれないということは、虚構を広めてやろうという動機付けになる。

“肥大化する4次情報"で触れたとおり、TVやネットにより、4次情報が増大し、事実と虚構が混ざった情報が増えた。

“情報のリアリティ"で触れたとおり、自分の見ている現実は、単純に1次情報を元に形成されるわけではない。 順序、頻度、量、親和性などを考慮することで、4次情報を事実と錯覚させることはできるだろう。 そうすると、仮に4次情報が虚構で溢れていたとしたら、どんどんと我々の現実は歪んでいくのではないだろうか。

事実を曲げうる要素

傲慢さであったり、謙虚さの欠如が虚構の流布につながる。

事実を曲げうる動機は、組織的に、戦略的に、ターゲット(マス、大衆)を教育しようとすること(indoctrination) である。 例えば、政府のプロパガンダ、企業のマーケティング、学校の義務教育が当てはまるだろう。

ここでいう教育とは、視野を広めたり考え方を養うとかではなく、1つの考えを教え込むことである。 そのため、相手の考えを否定、組織側の考えを肯定することになる。 すぐに思いつく手段は、検閲である。

“情報のリアリティ"で触れたとおり、4次情報であろうと、やり方次第でターゲットの現実を再構成することできそうだ。 義務教育は、早い段階(順序)で、継続的(頻度)、長期にわたって(量)考えを教え込む。 自他の意識が生まれる前なので、素直に考えは吸収される。 自我が形成された後でも、そうしたベースがあるため(親和性)新たな教育も可能となる。

民主主義なら事実のみ語るのか

政治は舞台演出のようなもので、TVやネットは舞台装置である。政治体制によって演出は違えど、方向性は大きくは変わらない。 演者が代わり、表向きが代わるだけ。AKBの総選挙を例にすれば、裏にいる秋元康さんは変わらない。 ただ、民主主義であれば、参加者の納得感を演出することはできる。

仕組みには、シンプルにすることで、明らかに問題はないですよねとする方法と、複雑にすることで明らかな問題はないですよねとする方法がある。 社会を大きく定義しようとすると、複雑な仕組みになり、4次情報が増える。

事実か口実か

社会では、口実は時に重要である。 例えば、プレゼントを申し訳ないから受け取れないと言う人に対しては、余り物ですからと言った口実(excuse)を使うこともある。 むしろ、相手に気を使わせないために、口実の上手さが社会では重宝される気がする。

しかし、口実は事実ではない。 個人や仲間内の枠組みを超えて、4次情報で用いられる口実は、事実か口実かの判別はつけられない点で厄介だ。

テクノロジーを例に上げれば、CSAMやカーボン排出量(地球温暖化)を理由に、個人(のスマホなど)の追跡を強化する動きがある(wef-individual-carbon-footprint-tracker-pushed-by-chinas-alibaba-at-davos),(individual-carbon-footprint-tracker-alibaba-wef-2022)

目的に対してアプローチの効果が限定的であり、目的以外に利用されていることを踏まえると、口実に思える(csam-apple-eu-surveillance)(eu-csam-scanning)

protecting people or just total stalker

テクノロジーに限らず、様々な口実(プロパガンダ、マーケティング)は出回っている。

4次情報から遠ざかる

中央化したプラットフォーム、例えばSNS等では、ターゲット(マス)にアプローチが容易である。 そうした、マス向けのプロットフォームをから離れることができたならば、現実はless drama、less traumaになるだろう。

TVやネットによって世界が広くなったように感じることがあるかもしれない。 ところが、そんなことはない。世界はもともと広い。 ただ、ネットにより、必要のない情報が多く広められて、悩みごとが増えただけだ。 我々の世界の広さは、変わっていない。 世界地図をみただけでは、我々の世界は広くならない。 我々が行動したとき世界は広まる。 いらない情報を排除したところで、世界の広さは変わらない。